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TOEFL Mail Magazine Vol.41

特別企画
第6回:「TOEFLテスト受験ピーク」
現在180カ国*1以上の国で年間約72万人*2が受けているTOEFLテスト。そのスコアは全世界の5,000以上の機関に利用されており*2、なお増えつつあります。今年の9月から(日本では2006年5月)次世代(インターネット版)TOEFLテストが導入されたことを受け、40周年を迎えたTOEFLテストの歴史を、開発の経緯・データ・当時のエピソードなどを交えながら、シリーズで振り返ってみたいと思います。

*1
TOEFL®- iBT Tips; ETSより
*2
TOEFL® Information and Registration Bulletin 2005-2006(PBT,CBT用)より
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TOEFLテキスト第5回では、留学ブームにともない、TOEFLテスト受験者が急増した1980年代を追いました。1990年代に入ると、日本での1年間の受験者数は10万人を超えました。

1990年になって、ようやく写真のようなデータ資料が定期的に発行されるようになり、Native Language およびNative Countryごとの受験者数や平均点などが公表されるようになりました。これらは現在でもETSのホームページからダウンロードが可能です。しかし、1991年から1995年までは2年ごとのデータとなっており、現在のような1年ごとの発行となったのは1996年からでした。1990年代は、日本でのTOEFLテスト受験のピークとなり、データを見ても増加の一途をたどっていることがわかります。
はじめは5つのセクションを含んでいたTOEFLテストは、1976年に3セクションになり(第3回参照:)、1995年の7月には同じ3セクション構成の中でテスト形式が変更されました*3。(次号に続く)

写真およびグラフデータ出典:
`TOEFL Test and Score Manual Supplement' 1992-93 Edition; ETS
  `TOEFL Test and Score Manual Supplement' 1994-95 Edition; ETS
  `TOEFL Test and Score Data Summary' 1995-96 Edition; ETSより


(*TOEFL Test and Score Data Summary' 2003-04 Edition; ETSより)

 
 当時の日本

1990年には東西ドイツが統一しました。また、同年には日本の海外渡航者が初めて1000万人を突破しました*。
1991年にはフジテレビ系列のドラマ「東京ラブストーリー」や「101回目のプロポーズ」が人気を博し、1992年には「クレヨンしんちゃん」や「美少女戦士セーラームーン」などのアニメもスタートして、テレビがより影響力を増していった時代と言えるでしょう。(*: http://ja.wikipedia.org/wiki/より)

【画像:こちらより引用】

 
 当時を振り返って

今回は、当協議会TOEFL事業部で一番長く働いているスタッフの当時のエピソードをご紹介します。

 
 山王グランドビル(赤坂見附) 1987年
 TOEFL事業部は山王グランドビルの2階、216号室でスタートしました。窓もなく、入り口のドアからわずか10歩ほどで行き止まりとなる小さな部屋でしたが、この部屋を二つに区切って、常時7名が業務を行っていました。
 その1つの部屋は、直接訪ねてくる受験者に対応するための受付でした。当時TOEFLテストの受験者対応業務は私1人で担当しており、午前10時から夕方4時まで窓口での受験者対応や電話対応、その合間に郵送で届いた申込用紙の開封とBulletin(申込用紙付き受験要綱)を返信用封筒に入れて送る発送作業を行わなければならず、電話で受験者からの問い合わせに応じながら申込用紙を開封したり、郵送物を開封しながら窓口で受験者に対応するという忙しさでした。電話は手で持って対応していたことはありません。ほとんどが肩で挟んで、手は別のことをするため動かしている、という状態です。とにかくこの頃は一日が過ぎるのがあっという間に感じ、仕事をしながらちょっと雑談したり、お茶を飲みながら仕事をする、ということはありえないほどの忙しさでした。
 当時は今のようにインターネットや携帯電話などはまだまだ普及しておらず、受験者はTOEFLテストの参考書等の書籍でTOEFL事業部の存在を知って問い合わせてくるので、受験者からの質問のほとんどはBulletinに記載されている基本的な内容でした。TOEFLテストは「試験を受ける前にまず受験要綱を読み込み、きちんと試験について把握する」ことからはじまります。このため、電話でも直接対応の受付でも「Bulletinを読んで理解してから、申込用紙を記入し署名欄にサインをすることになっている」と説明し、まずBulletinをよく読んでもらうように案内していました。ある時、申込みに来た受験者にいつもと同じように対応していたところ「これから留学して英語を勉強するのだから、今は内容がわからない。だから申込用紙の書き方を教えてほしい。あなたはそのためにいるのでしょう?」と言われたこともありました。受付で受験者と直接やりとりするということは自分にとっては刺激になり、良い経験になったと思っています。でも当時はとにかく必死でした。何しろ1人で対応しているため、申込締切日には山王グランドビルの2階の廊下の半周分ほどに申込者の列ができ、迅速に対応するのが一番苦労したことです。
 この時の受験料は、郵便局で日本円での支払いでしたが、金額設定はドル建てだったため、その日の為替レートで日本円の金額が変わっていました。このため受付では金額の確認にも時間がかかり、大変だったことが思い出されます。受験者の増加とともに、受験料の支払い方や、申込書の配布、申込の受付方法も変わってきましたが、受験料が日本円で設定されたときは「これで金額の間違いがなく、確認にも時間がかからず処理ができる」と嬉しく思ったことは忘れられません。

 平河町貝坂ビル(千代田区平河町) 1988年〜1992年
 山王グランドビルでのTOEFLテスト業務は、受験者の増加と共に限界がありました。相当数のBulletinのストックを抱えなければならず、また事務処理をするスタッフ、パートなども最初の頃と比べると増えていきました。このため、TOEFLテストの業務部分は手狭になり、オフィスを移転することになりました。米国ETSから送られてくるBulletinは、大きなトラックで1台分ぎっしり積まれていて、納品となると総動員で事務所に運んでいたものです。平河町オフィスはビルの1階であり、以前のスペースに比べるとかなり広いワンフロアで、機械室、会議室、テスト資材の保管倉庫、事務スペース、受付というスペースに区切り業務を行っていました。この頃はすでに受験者の数が急速に増加していて、事務を行うスタッフも10名弱、受付担当としてパートタイマー6名にまで増えました。広いカウンターにはいつも人が殺到して、書き方の説明に一日中立ったままでした。その頃は締切日の一日だけで申込用紙が1,000通を超えることは当たり前になっていました。その後、全国の受験者にすべて同じ条件で受付を行うという方針の下、申込用紙は郵送での受付のみとなりましたが、それでも締切日に直接持参する人もいて、あるとき、兄弟に頼まれた受験申込用紙を関西から持参し「絶対に受験できないと困ります」と受付で延々と泣いて頼まれ、対応に苦労したこともありました。
 申込用紙は受験者の希望会場のエリアごとに分けてから先着順に希望会場に振り分けていきました。東京23区内の会場は収容人数が受験者数よりも少ないため、よほど早い時期に申し込まないと希望会場での受験は難しく、締切日近くになって申込みをすると圏内となっている関東エリアの遠方の会場でないと受付することができないことが常でした。受験者の中には、新年度のBulletinが配布されるとすぐに1年分、計12回分の申込を済ませる人もいて東京を含める関東エリアは常に会場が不足している状態で、遠方の会場に割り当てられた受験者からは決まってクレームの電話がかかってきて、対応に追われていました。
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