For Lifelong English

  • 鈴木佑治先生
  • 慶應義塾大学名誉教授

第110回 コミュニケーションは膨大なフロンティア

コミュニケーションでは、メディア(media/単数形medium)を媒体にメッセージ(message)を生成し、伝え、受信し、理解する過程が繰り返されます。(*1)言語はメッセージとしてもメディアとしても重要な役割を果たしています。しかしながら言語はヒト特有の能力でヒトを他の霊長類から分ける特徴として注目を浴びてきたことなどから、その役割が過剰に重要視されてきた感は否めません。コミュニケーションという得体の知れない大海においては一部にすぎません。(*2)

高等学校で英語コミュニケーションという教科があります。4技能(「聞く」「話す」「読む」「書く」)の運用能力をつけなければならないことは確かですが、それだけをどんなに訓練してもコミュニケーション能力の向上には結びつきません。日常のコミュニケーション活動は言語と5感覚がミックスした非言語メディアの複雑なコラボレーションで成り立ちます。その場その場で的確なメディアを駆使してメッセージを伝えることがコミュニケーションの極意です。

極意とは言え手探り中の極意です。コミュニケーションは無限で、広大・膨大で、多岐に亘りあまりにも複雑過ぎてその全容を明かす確固としたモデルがないからです。多分野多数の人がそれぞれの立場で考える知見を結集し少しずつ解明するしかありません。現在では大まかなことしかわかっておらず、これからの魅力的なフロンティアであるということでしょう。(*3)

コミュニケーションには(1)コミュニケーター、(2)伝達すべきメッセージ、(3)メッセージの伝達媒体であるメディアの3つの要素が必要です。要は、複数のコミュニケーターがメディアを介してメッセージを交換することです。その意味で森羅万象はコミュニケーション活動であり、ヒトはそのごく一部を占めるに過ぎません。ヒトのコミュニケーションをもって、ましてや、ヒトの言語活動をもってコミュニケーションの全体像に迫ることはできません。

ヒトのコミュニケーションに絞ってみても、そこにはヒト同士以外にも生物、無生物、物事と何らかのインタラクションが介入します。純粋にヒトだけのコミュニケーションは至極抽象化しない限りありえません。ましてや言語だけのコミュニケーションなどは現実世界では存在しません。言語を介さない非言語コミュニケーションは無限で、私たちのコミュニケーションは言語と非言語の調和の産物と考えるのが自然でしょう。

無数の例から頭に浮かんだ一つを選んで説明します。jazzの名曲の誕生に関する逸話です。ある夏の夕暮れ時に、マンハッタン五番街の高級ストアTiffany’s(*4)の前で、A(男性)とB(女性)の若いカップルがショーウィンドーに展示されている高価な宝石を食い入るように見ていました。そこを通りかかった作詞・作曲家のCとDは二人の様子に魅了され立ち止まりました。その時にAはBに対して、

“Gee, honey, I’d like to get you a sparkler like that, but right now I can’t give you anything but love.”
(君にあんな光るやつ買ってあげたいな。でも、今、僕が君にあげられるのは愛だけだよ。)

と言います。BはAに肩を寄せてただ微笑んだのです。その一部始終の様子を見たCとDは近くの空き地に駆け込み1時間ほどで曲を作り上げました。1928年にリリースされたジャズの名曲“I Can’t Give You Anything But Love, Baby”です。通りがかりのCとDはJimmy McHughとDorothy Fieldsのことで、若いカップルのAとBは不明です。(*5)

この曲ができるまでのコミュニケーションの流れは、Step(1):Aがメッセージを作り、Step(2):言語と非言語メディアを介してBに発信する、Step(3):Bはそのメッセージを受信し、理解し、Step(4):その反応メッセージを何らかのメディアを通しAに送り返します。Step(5):その二人の全ての状況がたまたま通りかかったCとDにもメッセージとして発信され、Step(6):CとDはそれを受信し、反応してメッセージとしての曲を作ります。(*6)

コミュニケーターとして介入するヒトは、それぞれ、メッセージを作り、発信し、受け取ったメッセージを理解し、メッセージを作り反応する、上記のStep(1)とStep(3)とStep(6)はそれぞれの個体の内部で起きるコミュニケーション・プロセスで、いわば体内コミュニケーションとします。Step (2)とStep(5)におけるヒトとヒト、すなわち、個体と個体の間、つまり個体の外部で起きるコミュニケーション・プロセスを体外コミュニケーションとします。(*7)

ヒトの体内コミュニケーションでは、身体中に巡らされた視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚などの感覚器官が受容した情報が末梢神経を通して中枢神経に送られ、それぞれの感覚野で処理され、さらに連合野で統合されてメッセージになります。言語情報もその中に含まれます。(*8)

すなわち、ヒトの体内におけるコミュニケーションは、少なくとも視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚などの感覚情報そして言語情報が、それぞれの感覚に特化した神経という伝達メディアを通して送られ、複合的モードのメッセージが創造されているのです。

要は、ヒトの体内で起きているコミュニケーションは多メディアが連合した結果作り出される多モードの複合的メッセージなのです。言語メディア、言語メッセージはほんの一部にすぎません。

体内コミュニケーションの多メディアを通して生成された複雑で複合的なメッセージが、体外コミュニケーションでヒトとヒトの間で交わされることになります。そこで自由に使えるメディアがあまりにも限られているという事実に直面します。体内コミュニケーションでは生まれながらに備わったあらゆる感覚のメディアを自然に駆使できたのに、体外コミュニケーションで生まれながらに備わったものは発声器官や手足を含む運動器官に限定されるからです。

そこでヒトは長きに亘り高度の身振り、話し言葉、絵画などを発展させ、それらを補う工作物(artefacts/artifacts)を作るテクノロジーを開発してきました。その一例である書き言葉は、時間的に空間的に離れた個人に情報を伝えることを可能にさせ、紙が発明されるとその汎用性が高まり、印刷機の発明をもって大衆への情報伝達の道が開かれました。近年200年では電信、電話、写真、映像、新聞、ラジオ、テレビ、コンピュータなどのマルチ・メディアと称するテクノロジーが次々と出現し、ヒトとヒトを繋ぐ通信手段は日進月歩の勢いで開発され一般に普及するようになりました。

しかしながらこれらの多くのテクノロジーは、マルチ・メディアと言われながらも主に視覚と聴覚情報に特化し、味覚、嗅覚、触覚などの情報を伝えるまでのテクノロジーには至りません。すなわち、ヒトの体内コミュニケーションにおける多メディアで生成される多感覚でリッチなメッセージは、ヒトとヒトの間を繋ぐ体外コミュニケーションにおいては、伝達メディアが限定されるためにかなり制限されていると認識すべきです。

それを補うため、ヒトはその時々に限られた表現手段を駆使してその場に最も適する方法でメッセージを発信しようと努力します。

上記の例では、AはBに対し言語だけではなく相手を見つめたり肩を優しく抱きしめたりして言葉にならない愛の表現をしているはずです。また、Bはほとんど無言でAを見つめたり体を寄せたりしてAに対するメッセージを送っているはずです。CとDはAの述べた言葉だけではなく、肩を寄せ合う二人の雰囲気から言葉を超えたメッセージを受け取ります。服装などの外見から決して豊かではないと思われる二人と高価な宝石という対照が視覚情報としてキャッチされます。言語と非言語のメディアが絶妙に組み合わされなければ伝わりません。(*9)

コミュニケーションはありとあらゆる活動を含むことからたくさんの切り口があります。余白の関係でもう2つだけ紹介します。一つは、体内コミュニケーションに関連して、ヒトがメッセージを生成したり(発信)、メッセージを理解したりする時に作用する心的態度(モダリティー/modality)です。筆者は価値観に関係していると思っています。メッセージを作るときにも解釈するときにも、そのヒト固有の価値観に基づく心的態度が基盤になるということです。

上記の若いカップルの例でいうと、Aが述べたことと、それに対するBの仕草の中に「どんな物よりも愛を重んずる」という価値観に基づいた心的態度が交換されます。またそれを通りすがりに耳にし、目にしたCとDも二人の価値観に共通する心的態度が備わっていたと解釈できます。以心伝心とはコミュニケーションにおけるこうした価値観の共有かもしれません。CとDはlyricsとメロディーに彼らの価値観を託し、それが多くの人にも共有され、この曲は人気を博してきたとも言えるでしょう。(*10)(*11)

もう一つは、体外コミュニケーションにおけるメディアが個人と社会に与える変革です。Marshall McLuhan(1911-1980)は、その著The Gutenberg Galaxy(1962)やUnderstanding Media:The Extensions of Man(1964)でこの見地から人類の歴史を語り将来を予測しました。1960年代は賛否両論が入り混じりつつ多くの注目を浴び、(*12)1970年代は下火になったものの、彼の死後、1980年代後半インターネットなどの普及とともに再度脚光を浴びつつあります。コミュニケーションを語る上で無視できません。

McLuhanにとってのメディアは、人類が創造した有形無形の全てのモノ、テクノロジーを指します。話し言葉、書き言葉、筆、印刷技術、電話、テレビ、コンピュータから衣服、集落、電球、ゲーム全てです。こうして作り出したものが中枢神経の延長(extensions)としてヒトの一部になり、ヒト個人と社会を内部から変革すると主張します。例えば、衣服や家や城壁は皮膚の延長として中枢神経に組み込まれて人類居住圏を変革したと考えるのです。

メディアはメッセージ(コンテンツ)を伝える媒体ですから、メッセージ(コンテンツ)が一義的なもの、メディアは二義的なもの、個人や社会に影響を与えるのはメッセージと考えるのが普通です。しかしMcLuhanはその逆を主張します。テクノロジーそのものが重要で、それが持つ内容は何ら意味がなく、多くの思想家がそう考えられなかったことで失敗したと辛辣に批判します。

有名な“The medium is the message.”一文では、テクノロジー(=メディア)のメッセージは、それ以前に存在したテクノロージー(=メディア)に過ぎないと断言します。一例にライト(electric light)というテクノロジーを挙げています。ライトのメッセージは蝋燭やランプという夜間に明るさをもたらすというメデイアとしての機能以外はないのに、テクノロジーとして夜を昼に変える明るさを再現し、個人や社会に多大な内的変革(implosion)をもたらしたと述べます。

McLuhanの西洋文明の見方は痛烈です。人類は元々音声言語を使用していましたが、文字を発明し書き言葉ができました。大きく分けて象形文字(hieroglyph)と表音文字です。西洋文明は表音文字のフェニキア文字を祖とするアルファベットが書き言葉となりました。アルファベットは言葉とそれが指示するモノ・ゴトとの繋がりを切ってしまいます。

例えば“isomorphism”という語とその日本語訳「同型」を見比べて見ればわかるでしょう。アルファベットを知っていてもisomorphismの大雑把な意味を掴むのは至難の技ですが、漢字を知っていれば[同型]はなんとか意味が掴めます。

もともと音声言語はその音声とその意味するところには直接結びつきはありません。Saussureが言う記号(言語も含む)の恣意性(arbitrariness)のことです。すなわち音標文字は言語の恣意性をそのまま残したものです。でも20数文字覚えれば良いので汎用性はあります。それに対して、象形文字や表意文字は沢山の文字を覚える必要があります。しかし、語の意味するところと強い結びつきがあるので、一旦覚えると初めて見た語でもある程度予測がつきます。筆者は10年前に中国の大学を訪れた時に、漢字の筆談で意思疎通を図った経験があったことから感覚的に頷けます。(*13)

詳細に触れることはできませんが、こうしたアルファベット文字が西洋の個人と社会に与えた最大の影響について、McLuhanはグーテンベルグの印刷機の発明をあげます。それを機に機械化時代(mechanical age)が進みそれが人々と社会全体の意識に浸透し、西欧社会全体が分断化、規格化、専門化、線状化、中央集権化、脱族長化(detribalized)したと述べます。(*14)

そして20世紀になり瞬時に情報交換することを可能にする電子テクノロジー(electric technology)が普及し始めると、脳の延長としてのテクノロジーは最終段階に達し、地球上のあらゆる人を瞬時に結びつけることにより地球は一つのGlobal Villageと化す。それは非線状的で集合・包括的・融合的、脱センター的そして族長的(tribal)な意識を助長し、西洋社会の多くの個人はそれについて行けず困惑するであろうと述べています。

McLuhanにとってまさにこうしたテクノロジー、すなわち、メディアこそが社会と個人に影響を与えるのであって、テクノロジーが意味する内容ではない、これに気づいて初めて新しいテクノロジーに対応できる、西洋社会でも古今東西それができたのは芸術家(artists)のみと述べています。

上述した通り、McLuhanの言及の多くは客観的データに基づいたものではなく思索の域を出ておらず反論が多いのも確かです。(*15)筆者自身読むほどに多くの疑問が湧いてくるのを否めません。しかし、確かにテクノロジーが私たち個人個人の意識を変えて社会のコミュニケーション形態に大きな影響を及ぼしてきたことは否めません。今後そうした実感は良きにつけ悪しきにつけ増えるでしょう。

ともあれ、コミュニケーションは今後の社会のキーワードであることは確かです。これからアメリカの大学院に留学しようと考えている読者には、これを機にMcLuhanのUnderstanding Media: Extensions of Man(1964)を原書で読むことをお勧めします。本文は400ページほどでPart1とPartⅡから成り、Part1の7章では考え方の大枠を語っています。特にHot media vs Cold mediaについての章は興味深く様々な分野で議論されてきました。

Part Ⅱでは個々のテクノロジーが中枢神経の延長として個人と社会にどのような影響を及ぼしたか述べています。
The Spoken Word, The Written Word, Roads and Paper Routes, Number, Clothing, Housing, Money, Clocks, Comics, The Printed Word, Wheel, Bicycle and Airplane, The Photograph, Press, Motorcar, Ads, Games, Telegraph, The Typewriter, The Telephone, The Photograph, Movies, Radio, Television, Weapons, Automationについての章が並びます。

それぞれは1960年代中頃現在として語られています。それぞれのその後はどうなったのでしょうか。もちろんこの後は色々なテクノロジーが出てきます。コンピュータ、インターネット、半導体をはじめスマートフォンはどうでしょうか。また、1964年といえば東京オリンピックの年で日本は先進国入りの出発点に立った時代です。その後日本はテクノロジー先進国になり、どのような影響を受けたのでしょうか。結局、McLuhanの投げたテーマは森羅万象に関わり、誰でも自分が意識するモノ・ゴトを切り口に賛否両論を掲げられるものと思います。

言語、コミュニケーションに関心を持つ筆者としては、The Spoken WordとThe Written WordについてのMcLuhanの指摘は無視できません。コミュニケーションとは何か、言語の役割とは何かを考える上でヒントを提供してくれます。英語も含めた外国語教育を意義あるものにするための大前提であると考えます。

(2017年8月22日記)

 

(*1)Marshall McLuhanのThe Gutenberg Galaxy(1962)及びUnderstanding Media:The Extensions of Man(1964)における単数medium/mediaとmessageと同じ意味で使います。ちなみに、mediumに対してcode、expression、representationなど、messageに対してcontent、meaningなどが使われることがあります。いずれもFerdinand de SaussureのCourse in General LinguisticsSaussure’s Third Course of General Linguisticsにおける記号(sign)を構成する形態(signifier)とそれを指示する概念(signified)に端を発します。McLuhan自身message以外にcontentと meaningを併用しています。
(*2)古代ギリシャ哲学では、Socrates、Plato、Aristotleと続く哲学者がモノの起源を巡る議論の一環として論じ、近世哲学ではDescartes、Locke、Humeらの哲学者が、合理主義(Rationalism/Descartes=生得説客観性、普遍性)と経験論(Empiricism/Locke and Hume=感覚による学習説、相対性)の2つの立場で議論しました。19世紀には、言語障害(aphasia)の研究でヒトの脳におけるブローカ野(Broca’s area)やウエルニッケ野(Wernicke’s area)など、言語に特化した部位が発見され、医学もこの議論に参入しました。20世紀にはNoam Chomskyらは生得説をもとに生成文法を展開する一方、Edward Sapir, B.F. Skinner, Ivan. Pavlov, John. B. Watson, Roman Jakobson, Hilary Putnam, George Lakoffほかは逆の見方をします。脳神経学の見地からDescartesを批判するAntonio DamasioのDescartes’ Errorも一読の価値ありです。
(*3)情報工学の基本モデルとなったShannon &Weaverの“The Mathematic Theory of Communication”(1948)におけるコミュニケーション・モデルは、情報機器などで情報を伝える過程で生じるnoiseなどの研究で、コミュニケーションに関する基本用語を提供したことは確かです。言語学では、Descartes客観主義に依拠する生成文法は主体的、動態的、無限で予測不能なコミュニケーションを切り捨て、抽象化された言語能力(linguistic competence)に焦点を当てました。それに反してコミュニケーション的要素を取り入れた社会言語学や語用論の研究者も、コミュニケーションにおける言語機能に触れたRoman Jakobsonも、確たるコミュニケーション・モデルの提示までには至っていません。
(*4)正式の名称はTIFFANY & Co.ですが、Tiffany’sで親しまれているようです。
(*5)1928年(昭和3年)は世界大恐慌の1年前でその兆しは現れ始めたことでしょう。この若く貧しいカップルには宝石など夢のまた夢であったことでしょう。
(*6)そしてその曲はリリースされ多くの人に発信され、受け取ったそれぞれがそれぞれの形で無数の反応を発信し現在に至ります。そのサイクルがこれからも続くでしょう。
(*7)筆者は、体内コミュニケーションをprimary communication、体外コミュニケーションをsecondary communicationとし、コミュニケーション・モデルを考えてきました。
(*8)体内コミュニケーションは、メディア論、言語哲学、医(科)学、神経科学、心理学、認知科学、人工知能など多くの分野に亘る総合領域です。
(*9)この曲がリリースされた翌年の1929年にニューヨークで端を発した世界大恐慌が荒れ狂います。その前兆は1928年に既に現れていたはずで、外見からしてこのカップルもその影響を受けていたことでしょう。
(*10)1928年にリリースされるや多くの歌手がそれぞれの解釈をもとに歌っています。それぞれの歌手の心的態度でスクリーニングされた結果です。Ella Fitzgerald, Billy Holiday, Louis Armstrongから最近ではLady GagaがTony Bennettと歌っていますが、筆者はAlbanie Fallettaのバージョンが(https://www.youtube.com/watch?v=0HTUEAqnyc8)好きです。名曲は時代を超えたコミュニケーションを伴います。
(*11)価値観の違いにより齟齬が生じることもあります。拙著The Semantics of the English Modals: A Case of Multi-sensory, Multi-lateral Generation of Meaning in Communication.(2002. N. Yuji Suzuki. Liber Press)でその視点から映画“The Graduate”で使われている心的態度(modality)の表象としての法助動詞(modals)を分析しました。
(*12)YouTube上のMcLuhanのトークやインタビューは、アメリカの大学院留学を考えている読者の視聴を勧めます。
(*13)英語でも最小意味単位の形態素を覚えれば予想がつきます。例:isomorphism(iso-, morph, -ism); ungentlemanliness(un-, gentle, man, -ly, -ness)
(*14)Chaplinの“Modern Times”で専門化され、細分化され、専門化され、線状に進む一連の作業がその例でしょうか。
(*15)メディア論で脚光を浴びているMcLuhanですが英文学者です。William Shakespeare, William Blake, T.S.Eliot, James Joyceらほか多くの作品を引用しています。ちなみに、プロテスタントからカソリックに改宗したT.S.Eliotとは背景的にも似ています。McLuhanの述べていることは問題提起として捉える方がよいでしょう。

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