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様々な世代の人々が様々な場で、生涯を通して何らかの形で英語にかかわって仕事をしています。英語は人それぞれ、その場その場で違います。このシリーズでは、英語を使って活躍する方にお話を聞き、その人の生活にどう英語が根付いているかを皆さんにご紹介し、英語の魅力、生涯にわたる楽しさをお伝えしていきます。英語はこんなに楽しいもの、英語は一生つきあえるもの。ぜひ英語を好きになってください。

第30回 Lifelong English – 同時通訳者・常盤陽子先生に聞く その1

鈴木 佑治(聞き手)

鈴木 佑治 先生
立命館大学生命科学部生命情報学科教授
慶應義塾大学名誉教授

常盤 陽子先生

常盤 陽子 先生 プロフィール
1962年 青山学院大学卒
1967年 アメリカ・ニュージャージー州ドリュー大学大学院卒
1969年 ISSに通いながら同時通訳
1974年 ジョージタウン大学言語・言語学科通訳・翻訳コース修了
1975年 ISS講師をしながら同時通訳
2002年~ ジュピター・テレコミュニケーションズ(JCOM)会議通訳・翻訳

英語との出会い

鈴木:
常盤先生とのご縁は、共にジョージタウン大学に留学してからずっと今日まで続いており、誠に光栄なことでございます。現在、同時通訳・翻訳家として活躍されていますが、もともとは神学を勉強されていたと伺った事があります。
常盤:
私は、祖母の代からのキリスト教の家庭で育ち、学校は女子学院に通いました。母方の祖母がキリスト教の信者だったので、母の女の姉妹3人、いとこたちも含め、みんなキリスト教の信者で、教会には小さい時から通っていました。そこで、大学では、キリスト教教育学を学びました。母校の青山学院大学の文学部の中に、昔はキリスト教学科という教会の牧師の資格を取る科がありました。男性の方は、大体牧師の資格を取って牧師になられますね。女性でも1人、私のクラスメートで牧師になられた方がいますが、どちらかと言いますと、キリスト教教育のサポート役にまわり、日本にあるクリスチャン・スクール、そこに理科・数学などの教科と同じように聖書の科目があり、その先生になる人が多かったですね。できれば、子供たちが教会へ行くようになって欲しいというのが、クリスチャン・スクールの考えですから、そういう先生になられる方が多いです。卒業後は、アメリカのニュージャージー州にあるドリ ュー大学のマスターコースに留学しました。

TOEFLテストとのかかわり

鈴木:
ドリュー大学留学に際しては、TOEFLテストを受けられたと思うのですが。
常盤:
受けました。難しかったですね。でも、TOEFLテストがスタートしたばかりですし、アメリカの大学もあの頃は今ほどうるさくなかったですね。点数を何点取らなければダメというのもなかったですし。
鈴木:
私の時は、学部550、大学院600なければダメと言われました。だから私なんか、点を上げるために英語学校に入りましたね。話を戻しますと、TOEFLテストが日本に導入されたのが1964年と言われると、TOEFLテストを受けられた最初の世代のお一人ということになりますね。
常盤:
私が向こうに行ったのが東京オリンピックの翌年の1965年だから、ほんとに、まだ始まったばかりだったんですね。
鈴木:
留学をされた動機をお聞かせください。
常盤:
大学の交換留学ではないのですが、向こうの学校が日本に先生を送っていらして、その先生がお帰りになる時に日本人の学生を何人か連れていくことになったのです。その時、たまたま結婚した主人が既に選ばれていたものですからついて行ったのです。
鈴木:
アメリカに行く前から、英語を話せたのはないでしょうか?
常盤:
通っていた女子学院がクリスチャン・スクールで、中学1年からネイティブの先生がいつもいらしたので、耳は慣れていたのかも知れません。高校も同じ学校でしたので一貫した英語教育がありました。自分では気づかなくても、わりと早めに聞き取れるようにはなっていたかも知れませんね。

同時通訳の道に進んだきっかけ

常盤:
留学したドリュー大学はメソジストのジョン・ウエスレー系列の神学校です。ここに、セオロジカル・デパートメント、つまり神学部があり、その中の1つのセクションとしてクリスチャン・スタディーズがありクリスチャン・エデュケーションを2年間学びました。
鈴木:
卒業後はどうされましたか。
常盤:
1969年6月にドリュー大学クリスチャン・エデュケーションを卒業しました。アメリカではその年の7月に月面着陸に成功し、世界中がTVに釘付けになっていたときです。それを見てから帰国しましたが、当時は日本のキリスト教会にはお金がないので雇ってくださるところが何処にもありませんでした。仕事がないのです。困ってしまってどうしようかと、ご主人が新聞記者をしているお友達と話していたら、今通訳への関心が日本ですごく高いと教えてくれました。どうしてかというと、鳥飼玖美子さんや西山千さんのお名前が、あの頃パーッと出たんです。お二人は日本の同時通訳の草分け的な存在の方ですけれども、月面着陸の時に大活躍されたそうなんです。私は日本にいなかったものですから、残念ながら見ていないのですが。それで同時通訳への需要が今ものすごく高いと言われました。今まで英語をずっと勉強してきたんだし、通訳の学校に行きなさいと言われて、ISSという老舗の学校で、通訳の勉強を始めました。でも、向こうの大学で講義を聴いてきたし、人と話も出来たけれど、通訳をするということとは全く違いました。
鈴木:
ちょうど大阪万博の前ですね。日本もいよいよ高度成長で国際化の時代に入り、日本の製品が本格的にアメリカに輸出され始め、海外旅行も許されるようになってきた頃です。月面着陸は同時通訳でなければ何の意味もない、ニュースバリューもなくなってしまう生中継でした。鳥飼先生は現在、立教大学のコミュニケーション学科の教授をされていますが、西山先生とともに同時通訳の草分け的な存在ですよね。
常盤:
そのお二人のお名前を聞いていて通訳の勉強を始めました。ISSというのは、当時日本の通訳の学校としては歴史も長く、古風ですけれど、しっかりした教育をしていた学校でした。今でも麹町に学校があります。先生がとっても良く、いい学校でした。
鈴木:
当時そういう学校に入るのは大変で、英語が話せないと難しかったと思いますが、英語を話せる人はあまりいなかったように記憶しています。
常盤:
おっしゃる通り、あの頃は英語を実際に使う人はそう多くはいなかったですね。でも、日本中、英語、英語という機運はあったので、かなりたくさんの生徒さんが来ていました。何より先生が良くて、中でも相馬雪香先生が素晴らしかった。尾崎咢堂のお嬢さんで、西山さんと同じくらいの時から同時通訳として活躍しておられた方ですけれど、ものすごく怖い先生でした。通訳者としての基本的な心得を叩き込まれたこと、それが一番良かったことで す。
鈴木:
心得というと、例えばどういったことですか。
常盤:
例えば、皆が揃ってよく怒られたのが、日本語がダメだということ。通訳というのは、会社の偉い方が高いお金を出して、英語で相手の方にキチンと伝えたいという時に使います。その時にあなたたちのような子どものような日本語でどうしますかと、すごく怒られました。英語をテープで聞いて日本語にする時に、「うーんと」という調子で言ってしまうでしょう? そういう習慣が通訳中にも出てしまうわけです。彼女は殿様の奥様のような方ですから、日本語も本当にお綺麗で、そういう日本語はとても話せるようにはなれませんでしたけれど、でもその教えはとてもためになりました。それと、相馬先生がもう一つおっしゃったのは、何もペラペラ英語をキレイに発音できるだけ が通訳ではありません、それは大切なことではありません、外国の方の話すきちんとした英語を何回も聞いて、そういう話し方を学びなさいということでした。学校はテープをたくさん持っていましたから、文化・国家といった大きいものではなく、座談をしている英語の先生の会話などをテープにとったものを貸してくださり、それを聞きなさいと言われました。
鈴木:
それを聞きながら、訳すんですか。
常盤:
訳すというよりも、今はシャドーイングと言いますけれど、昔はリピートと言っていた学習方法です。ちょっと遅れてテープのあとを付いていく方法です。初めのセンテンスを2wordsくらい聞いて、リピートする。またつけて、聞いて、止めて、言ってみる。すごい初歩的なことですけれど、これを繰り返しました。実は私、英語を聞いて後から繰り返して言うだけなんて、初めはすごく侮辱だと思ったのですね。本当に、生意気で何も知らなかったから。
鈴木:
60年代70年代は思想・哲学を語った時代ですから、小難しいことを語るのに、不慣れな英語よりも日本語でという、英会話を軽視する風潮があったような気がします。コンプレックスの裏返しかも知れませんね、英会話に対して軽視しながらもコンプレックスをもつという二面性、もっとも、アメリカに行く前の私などその最たるものでした。非常に複雑な時代でしたね。
常盤:
心理的にそうでした。ですから、私、英語を話せることをあんまり出したくなくて、あなたアメリカから帰って来たから英語が出来るでしょうと言われても知らん顔していましたものね。

同時通訳の仕事について

鈴木:
ISSで訓練を受けて、その後で実際にお仕事をされたのですか。
常盤:
ISSに行って学んでいる2年目ぐらいから通訳の仕事を少しずつ始めました。ISSの通訳予備軍という感じで登録して通訳の仕事をしていたのです。
鈴木:
英語から日本語の通訳が多いのでしょうか。それとも日本語から英語でしょうか。
常盤:
両方です。ただ、これには、自国語にしか訳してはいけないというルールがありまして、例えば、私でしたら、日本人のために通訳をするときには、英語を日本語に訳すだけなのです。外国人が英語を日本語に訳すことはしないということです。ですから、普通は、自分の国の言葉にしか訳せないですけれど、でも歴史的に日本人は例外なんです。例えば、アメリカ人がフランス人と話す場合、フランス人のフランス語を、アメリカ人が自国の英語に訳しますけれど、日本人はその英語から日本語に訳すだけでなく、日本語を英語に訳してもいいのです。そういうやり方です。日本人の通訳者は両方やらないとちょっと間に合いません。
鈴木:
なるほど。日本人だから日本語にする方が必ずしも楽であるということではないと。
常盤:
違いますね。
鈴木:
アウトプットとしての日本語をよく知りつくしていなければいけないでしょうし、レベルの高い英語の言説にはそれに釣り合うレベルの日本語の訳でなければいけないでしょうからね。
常盤:
そうですね。通訳を使ってくださるお客様は、会社の経営者の方が多く、子供のような変な日本語で稚拙な表現で話されると、苦痛に感じられるでしょう。ですから、よい日本語が求められました。
鈴木:
英語に通訳する場合はいかがでしたか。
常盤:
英語にするということは、一番嫌いな和文英訳ですが、時間はかかるけれど、日本語で何と話しているかちゃんと分かっているので、それをまとめて英語に訳す方が、むしろ楽と言えば楽なんです。それに外国人の方は、私達の下手な英語でも寛大に聞いてくださる方が多かったですね。

【ジョージタウン大学のキャンパスにて、右端:常盤先生、その左隣:鈴木先生】

鈴木の感想

私の手元に、1974年5月のある午後。ジョージタウン大学のキャンパスの大きな木の下で、芝生に車座になり語らう日本人留学生の一群を撮った写真があります。若かりし日の常盤先生を囲み、私ほか何人かが談笑しています。常盤先生は既に同時通訳家として活動されており、当時ワシントンで活躍されている著名な同時通訳の方々と交流されていたので、国際会議の通訳の難しさについて話していたのかもしれません。後輩の私が言うのも何ですが、英語でも日本語でも常盤先生の語りには独特の切れとユーモアがあり、多くの人を虜にしました。私もその中の一人で、常盤先生が物事をどう表現するのか一緒に話すのが楽しみでした。当時、根拠もなく粋がっていた粗忽者の私を評して、一瞬の風のようにさらりと出たことばが、「黒沢明の映画の中で棒を持って出てくるような青年」でした。あまりに「言い得て妙」のこのことばに不覚にも合点してしまった私は、アントニオ猪木に平手打ちされて喜ぶ猪木ファンにも似た心理に見舞われ、感激して喜ぶ始末でした。ことばでは説明できない絶妙なレトリック、そして粋が闊歩した都会で磨かれた常盤氏の表現力はとても魅力的です。次回も常盤先生の話をお楽しみに。

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