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 様々な世代の人々が様々な場で、生涯を通して何らかの形で英語にかかわって仕事をしています。英語は人それぞれ、その場その場で違います。このシリーズでは、英語を使って活躍する方にお話を聞き、その人の生活にどう英語が根付いているかを皆さんにご紹介し、英語の魅力、生涯にわたる楽しさをお伝えしていきます。英語はこんなに楽しいもの、英語は一生つきあえるもの。ぜひ英語を好きになってください。

第21回 Lifelong English - 出発点としての幼児英語教育 その2

平野宏司(ひらの こうじ)先生 平野宏司(ひらの こうじ)先生
学校法人平野学園 教育企画ディレクター
キートスガーデン(平野学園幼児教育部)園長
大垣文化総合専門学校(IFS)教頭
WWD(Women’s Wear Daily)日本特派記者

鈴木 佑治(聞き手) 鈴木 佑治
立命館大学生命科学部生命情報学科教授
慶應義塾大学名誉教授

英語の勉強の日々

鈴木:
今回は今年4月に大垣市でオープンしたキートスガーデン幼稚園の平野先生に、幼稚園の英語教育についてお話をお伺いしていきたいと思います。その前に、平野先生は今回の幼稚園をオープンする前には、どんなことをしていたのでしょうか。
平野:
高校卒業までずっと地元の大垣市で過ごしておりましたが、実はずっと外国に行きたいという思いを持っていたので、地元の英語弁論大会に出場するなど英語の勉強には自分なりに力を入れていました。一度大会で入賞して、1ヶ月ほど海外に行かせていただいたことがあります。そこでは、いくら自分が英語を勉強してきたつもりでも、いかに通じないかということを痛感しました。また、その後慶応義塾大学法学部に入学して上京してからは、帰国子女などのいろいろな仲間に出会い、親の仕事が違うだけで英語もしゃべれて外国の文化も知っている人が多くいることにショックを受けました。そんな不公平があるものかと、若いながらに釈然としない思いをしたんですね。そこでまた一生懸命英語を勉強するようになりました。その頃ご指導いただいた先生のアドバイスもあり、卒業後1990年にニューヨーク州立ファッション工科大学に留学しました。最初の1年は広告メディア学科で勉強し、その後ファッションビジネス学科でさらに1年勉強しました。1992年に日本に戻ってきたのはバブルが崩壊した頃ですが、日本の出版社で、アメリカのファッション業界紙「WWD(Women’s Wear Daily)」という日刊紙の特派員をやらないかというお話をいただいて、アメリカの本誌に原稿を書くようになりました。
鈴木:
まさに英語中心の人生ですね。それでアメリカの新聞の特派員というと、原稿は英語で書くのでしょうか。
平野:
ええ、最初から英語で書くように言われましたね。ファッションイベントや、日本や東京のニュースを英語で書いて、当時ですとFaxで送るということを毎日やっていました。東京にいながらアメリカのメディアに記事を書いていたので、私の記事は日本ではなかなか読めず、アメリカでないと読むことができませんでした。

キートスガーデン

ニューヨークへ留学

鈴木:
ファッション工科大学に行くのにTOEFLテストは受けましたか。
平野:
ええ。大学在学中にTOEFLテストを受験して、実は3年生のときにファッション工科大学にアプライして合格をいただきました。けれどまずはしっかり勉強してからと思いまして、卒業後に行くことにしました。
鈴木:
帰国子女でもないのに大学に合格するだけの英語力を身につけたというのは素晴らしいことですね。ところで、大学では法学部ですから本来であれば法科大学院とかに留学するのが本流でしょうけれども、そこで専攻を変えたのは、やはりご実家がファッション関係の事業をしていたということが影響しているのでしょうか。
平野:
はい、それは少なからずあります。それに大垣にいた頃は英語のラジオ放送など入らず、外国に行った友人がいると、外国のヒットチャートをカセットに録音してくるのが何よりのお土産という時代なものですから、上京してFENが聴けるようになると、毎時一生懸命そのニュース原稿を書き取る練習をしていました。そのため放送やメディアに関心が高くなったということも理由の一つではあります。
鈴木:
涙ぐましい努力ですね。
平野:
もちろん商標や経済法なども勉強したかったのですが、広告表現やジャーナリズム等、社会で大きな影響力を持つマスコミュニケーションについて学ぼうと思ったのです。日本でその分野で進んだ勉強ができるところは少なかったので、それだったら進んでいるアメリカで、そしてアメリカでも一番進んでいるニューヨークでということで選びました。
鈴木:
ニューヨークのどのあたりですか。
平野:
27丁目と7番街の交差点あたりですので、すぐそばにマジソンスクエアやペンステーションがあるところです。まさにファッションにはうってつけの場所でした。7番街はファッションアベニューとも呼ばれていましたが、あの頃は学内の日本人がまだ珍しかったですね。
鈴木:
そうでしょう。先見の明がありますね。情報は新しいから価値がある。特にファッションはそうですね。
平野:
ファッションは社会学の最先端だと思っています。服や車というのは人の心を躍らせるので、お互いにメディアと相性がいいようです。そういったアプローチもコミュニケーションの一つだと言えるのではないでしょうか。

ジャーナリズムを学ぶ

鈴木:
それではNYではどのような勉強をされたのでしょうか。留学生はそんなにいなかったでしょう?
平野:
そうですね、当時私の学科では日本人が2~3名いるかどうかでした。最初の授業は衝撃的で忘れもしないジャーナリズム。火曜日1時間目、授業が始まったかと思うと教授が一言、「今から1時間の授業でキャンパス内から10個記事にするネタを見つけてきて発表しなさい、ヨーイドン!」とおっしゃったんです。学生は皆慌てて教室を飛び出し、私も英語が出来ないながらも、給食のオバサンを捕まえたり事務局に行ってみたりと色々な人に話を聞いて、とにかく10個ネタをみつけて戻りました。それぞれ発表し話を聞いた後で、今度は教授が「それを題材に新聞記事を書いてきなさい」と。非常に実践的な授業でした。最初は追試の連続で、みんなが授業を受けている最中に、君だけこっちで相手をしてやるから、なんて言われて恥ずかしい思いをしましたね。
鈴木:
でも私も留学時代に体験しましたが、アメリカは親切ですよね。懇切丁寧に見てくれる。
平野:
ええ、本当にそうですね。もう一つ思い出に残っているのは、ハーレムで子供からコメントをとろうと思ったら、「じゃお礼に5ドルくれるか?」と言われた事です。ショックを受けたというか、こういうのもまた社会の一つなんだと思ったり。
鈴木:
1990年のハーレムといったら、今のハーレムのように平気で歩ける場所ではなかったですよね。湾岸戦争でジャパンバッシングもありましたし。
平野:
当時はカリフォルニアで暴動があり、そのために学校が休校になった頃です。道を歩いているだけで、笑われるような時代でしたね。そこでそんなジャーナリスティックなことを勉強させてもらいました。
鈴木:
私は1968から1978年までアメリカにいましたけれども、ジャーナリズムはプロフェッショナルスクール系でネイティブスピーカーに限定した専攻なので、あまり留学生を入学させないのではないですか。入るのは非常に難しかったと思いますよ、大変だったでしょう。
平野:
いえ、とにかくやれるだけのことはやってみようと思って、訳もわからずアプライしただけです。ただ、興味あることを突き詰めるとどこまで行けるかなということは常に考えていました。英語の勉強で言うと、その一つのゴールの中に、新聞記事あるいは小説を書くとか、報道をするとか、そういうプロフェッショナルなものがあるかと思いますが、それをなんとか目指せないものかと思ったり。
鈴木:
ファッションが人の内面に訴えるものをデザインで表現するように、ジャーナリストはある題材について人に訴えないといけない。そういうところが非常に似ていますね。平野さんが記事を書くときにはファッション関係の題材を特に選んだりしたのでしょうか。
平野:
そうですね。ジャーナリズムをジェネラルに勉強しながらも、得意分野を何か一つ作るのがいいのではないかと思って、自分に一番身近なのはファッションジャーナリズムだと思っていました。

記事

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帰国後「WWD」日本特派員に

鈴木:
留学後日本に帰ってこられて、先ほどの「WWD」の日本特派員を始められた訳ですね。この仕事を始めるきっかけのようなものがあったと思うのですが、それを聞かせてください。
平野:
当時就職した会社が「流行通信」というファッション誌を出版していたところで、ここで初めは色々な国内の記事を書いていましたが、ある時たまたま外国の記事を書く機会を与えられたのです。当時は記事ひとつ書くのでもすごく時間がかかりましたけれども。
鈴木:
それは、そういう勉強をしている日本人が少なかったから平野さんのところに来たのですね。まさにファッションジャーナリストのはしりですね。
平野:
いえいえ、他にもたくさん先輩がいらっしゃいますが、私にとってはまさにドンピシャで有難かったです。当時、私の大先輩で進駐軍の通訳をされた方が別の会社にいらっしゃって、その方によく面倒を見ていただきました。日刊紙ですから、毎日締切に追われながら、一生懸命書いて間に合わせました。例えば、後に秋葉原の萌え系ファッションにも絡んでくるロリータ系ファッションの記事も書いたり。
鈴木:
それを紹介したのは平野さんなんだ!2、3年前にオーストラリアのタスマニア大学に行った時に、まさにこの秋葉原のファッションに関心を持つ学生さんのグループの一人に会いました。日本が発信しているカルチャーが如何に強いインパクトを与えているか目の当たりにしました。でも誰が発信しているんだろうと話題にして話し合ったことがあります。博士論文を書いている人もいるそうです。
平野:
「ゴスロリ(ゴシック&ロリータ)」というファッションがあるんですが、これについてはカメラマンと一緒に私が記事を書いたのを、ずいぶんいろんな人が読んでくださったようです。特にNYで読まれましたので、それをみたNYのとんがった人たちが、あの記事見たよと言ってくださいましたね。
鈴木:
そういったファッションの大会が、テキサスでもありましたね。今、日本に来て秋葉原に行かない外国人はいないでしょう。外国に発信されたああいう日本文化に触れようと。
平野:
外国人の記者が来てそれを書くのもひとつのスタイルですけれども、私はやっぱり日本に生まれ育った者だからこそ書ける、秋葉原の成り立ちとか、秋葉原神社があったとか、そういう伝統的な場所での日本人の心情も表現していきたいと思っています。
鈴木:
なるほど。そういった心理的な側面も含めた秋葉原。そういった悲哀の部分は、申し訳ないけれども外国人の記者にはなかなか見られないでしょうからね。
平野:
反対に、私が書くのであれば、そういった部分をむしろ表現しないとやらせてもらう意味はないだろうと思っています。
鈴木:
そうですね。それで「WWD」東京特派員は何年くらいされたのでしょうか。
平野:
細かい決算発表などは今でも書いていまして、繋がりを持っています。フルタイムで働いていたのは1995年までで、それからは大垣を本拠にして、平野学園の仕事をしています。教育に携わるようになっても、やはり最先端のものを見る力を保っておかないと、他の世界を見られなくなってしまうと思います。教員の役割としては、子供たちにこういう生き方もあるということを見せてやれればという気持ちもあります。

鈴木佑治の感想

平野氏のご実家は、ファッション・デザイン関係の学校も経営されていたと記憶しています。ファッションへの関心はごく自然に生まれたのであろうと想像します。ニューヨークでジャーナリズムを勉強し、その後ファッション関係の有名雑誌WWD誌の日本人特派員として英語で記事を書き世界に発信してきました。ファッション、英語、ジャーナリズムと青春時代の3つの関心を見事に融合させた仕事を探したことになります。平野氏の創造力、発信力、行動力を強く感じます。今の教育界全般に欠けているキーワードです。おそらくこの仕事を通して発揮したこれら3つのキーワードが次回報告するキートス幼稚園の理念と実践に生かされているものと思います。

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