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留学経験者インタビュー

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留学経験者に留学のきっかけ、その国、その学校を選んだ理由、何を得てどう活かしているかなど実体験をインタビュー。前回に引き続き、アメリカ・ハイデルベルグ大学院にて教育学を専攻(M.A)、現在は国立高等教育機関で准教授として教鞭を獲りながら、大阪大学大学院博士課程に所属する、山西敏博先生にご寄稿いただきました。

山西 敏博先生

山西 敏博先生
北海道の国立大学を卒業、カナダ・クイーンズ大学、ブリティッシュ・コロンビア大学英語教育研究機構にて英語研修を受ける。
その後、アメリカ・ハノーバー大学(インディアナ州)にて社会学、心理学を専攻。
同大学修了、帰国後、公立高校教員を経て、私立中高一貫校教員として在職の傍らアメリカ・ハイデルベルグ大学院(オハイオ州)にて教育学を専攻(M.A.)。
現在は、国立高等教育機関にて准教授として英語関連科目の教鞭を執りながら、大阪大学大学院博士課程に所属。

アメリカ「留学中のエピソードや帰国後について」その2
国立 小山工業高等専門学校 山西 敏博先生

留学中のエピソード

(1)学部時代:

「『留学生』と言っても、しょせんは『大学生』なのだから、勉強に、部活動に、留学生としての国際交流の一助に、旅に、そして恋に、なんにでも積極的かつ果敢に挑戦するぞ!」と意気込み、全てに対して『実践』をしました。

①勉強:朝は2限目(9時~:1限につき50分授業でした)からの授業を中心に、午後の6限目まで5コマは取っていました。とりわけ専門である「社会学」と「心理学」には大いに苦戦をしました。

・「心理学」は一切黒板を使わずに、ただ50分間延々と話す教授でしたので、ノートテイキング(Note-Taking)をすべく書き取り(dictation)のみに集中していましたが、後々になって話のあまりの速さと、1時間に教科書30ページずつ分の内容が進むために、予習を中心としていたのが間に合わなくなって、復習中心に切り替えて、ノートも隣に座る友人のものを毎回借りて、放課後図書館で書き写しながら授業についていくありさまでした。結局、そのノートも、アメリカ版の大学ノートを1時間で5ページは書き連ねる量でした。

・「社会学」も同様に、毎回「小テスト」があり、これもまた20ページ分ほどの対談形式の本からの選択式問題でしたが、アメリカ人学生が悠々とマンガを読むように本を眺めて解いた「小テスト」の点数と、私達留学生が毎回必死になって辞書を引きながら2,3時間をかけて課題に取り組んで何とか取った点数は、当然のごとく同じ扱いを受けるはめになったのは、いささか閉口していました。

②部活動:主流としては「合唱団」(A Cappella Choir)、副として「留学生の会」 (これは全員必須でした)、そして、「応援部」でした。

・「合唱団」では通常は前期に「讃美歌」を中心に練習をして、後期には日曜日を中心に地域の教会を訪れて、「讃美歌」の披露をするのですが、私が帰国する2か月前からは、日本の童謡「もみじ」を「Momiji」として、男女声2部合唱にして譜線を記し、歌詞もローマ字で記して意味を伝えました。ちょうど大学の流域にオハイオ川が流れていて、秋になるとまさに「秋を彩るカエデやツタは、山のふもとのすそもよう」を地で行った場所であったので、「私(トシ)がいなくなっても、9月、10月に「モミジ」がキャンパス内に見られた時には、この歌と共に『トシ』のことを思い出してほしい」という願いを込めて、彼らに日本からの「置きみやげ」を置いていきました。同時に、この時期には地域の教会でも、私が指揮を執って、この「Momiji」を地域住民に披露し、好評を得ました。

③留学生としての国際交流の一助:「留学生クラブ」の会員は、全学生数1,000人 中、日本人は私を含めて3名、タイ人1名、インド人1名、他はシンガポール・マレーシア系の学生が10名弱という小規模でした。アフリカ系アメリカ人学生ですら数えるほどの、典型的なWASP系の大学でした。そこで、「International Week」というものを自ら企画し、1週間は留学生のお国自慢を披露して、国際交流の一助に務めました。さらに、地域にある小学校を訪れて、「Talking about Japanese Culture」と題して、体育館にて小学5年生を対象に、折り紙や日本の伝統、風土についての講演とワークショップを行いました。

④ 旅:これも「留学」の副次的な目的の一つでしたので、機会を見つけて積極的に行いました。週末ごとに近辺に出向き、長距離としては、アメリカ本土に入る前ですら、大韓航空を用いて「札幌―羽田・成田―ソウル(乗換のみ)-ハワイ(3日間滞在)-ロサンゼルス」と周り、そこからは全てカナダまでバスによる移動を試みました。
帰国の際にも「ルイビル(ケンタッキー州)―ダラス(経由)-ロサンゼルスーハワイ(2日間滞在)-韓国(5日間滞在)-成田・羽田―札幌」と経路を組み、当時で1年間FIXで13万円という「旅」を行いました。
アメリカ本国に入ってからは、年末年始の時期には「アメリカ・メキシコ・グアテマラ・エルサルバドル・ホンジュラス国境」というアメリカ・中米へのバスの旅(66時間)を行い、途中で軍隊に銃を突きつけられるなど、死にそうな目にも遭いました。バレンタインの時期には、新聞で格安航空券を見つけて、14日間をかけて「アメリカ・ポルトガル・スペイン・モロッコ・アルジェリア国境」の旅を行い、究極は5月に海外留学生向けの日本企業の就職面接があったので、インディアナ州から面接地のロサンゼルスまで延べ5日間、88時間連続のバスによる移動で向かいました。結局、その時の面接は功を奏しました。

(2)大学院時代:
10年を経て改めて学生に戻りました(1998-2000)が、上記のような積極性よりも、2年間ひたすら学問に打ち込みました。

帰国した今何をしていて、今後どうしていきたいですか

今は国立高等教育機関の教員として、学生に英語を学ぶ楽しさを始めとして、「ENIE(English Newspaper in Education)」から学ぶ時事と社会教養を授けつつ、私自身もそういった本業や研究をしながら、日本の大学院博士課程の学生として、毎週日英4冊の専門書を読み、それらを要約して指導教官に送るといったより深い研究準備を通年行っています(年間120冊)。さらには参考文献が延べ600冊ほどになる博士論文の英語による執筆準備にも現在入っており、同時進行中であります。47歳となった現在において、勤労学生は大変きついものがありますが、家族の生計を支えながらも「生涯一青年・一旅人」という座右の銘を持ちながら、今後とも何かの目標を設定して、それに向かって邁進をしていきたいと考えております。

これから留学を考えている読者へのメッセージ

40代の勤労おじさん学生となった今、若い頃の活力とそれに向かって多少無理をしてでも突き進むことのできるエネルギーが、やはり少しはうらやましく感じます。現在も本業の傍ら毎晩23時まで研究室にて勉強をしていますが、「若い時の苦労は買ってでもしろ」の言葉を皆さんに送ります。そして、ご家庭の事情が許せば、ご両親には「出世払い」ででもして海外に行かせてもらいましょう。1ドル=75円前後の昨今、私の時代と比べてもおよそ半額の金額で生活ができます。これは大変な利点です。せっかくの「円高」に感謝をして、大いに活用をしましょう。そして、そのご両親の恩に報いつつ、自身の成長のためにも数多くの事を自ら学び、自ら吸収してきましょう。「願はくは、われ太平洋の架け橋たらん」とは、旧5千円札の肖像となっていた、「武士道」を語った新渡戸稲造の言葉です。1880年代に米国留学をした彼の思いを継いで、私も学んだBritish Columbia University, CANADAには「Nitobe Memorial Garden(新渡戸記念庭園)」が設置されています。

ご両親も「かわいい子には旅をさせよ」で、大いに子供さんに見聞を広めさせてあげてください。北海道・最北端、稚内市で昭和47(1972)年、米軍駐留基地に在住していた家族とのほんの数時間の、自宅に招いての交流を体験した当時小学2年生の一少年は、20歳を過ぎてからこうした形で世界に飛び立ったのです。皆さんにも未来は広がっています!

山西敏博先生によるTOEFLメールマガジン101号「留学の経緯や影響を受けたことについて」の寄稿文についてはこちら

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